9 檜山安東氏の時代 (能代の歴史ばなしより)

9 檜山安東氏の時代

 檜山安東氏城館跡が国の史跡に指定されたのは昭和55年3月、文化財保護審議会がその保存と活用について答申したのが翌年4月でした。その後大館台地の公有地化の見通しがついた段階で、能代市の保存管理計画も策定されました。しかし、檜山安東氏とは誰から始まり誰までをいうのか、檜山城址にはどこにどんな施設があったのかなど、未だ判っていないことも多いのが実情です。まず、檜山安東氏は誰が初代かについて取り上げてみましょう。

 「能代市史稿」は忠季(ただすえ)を檜山一世としています。

 「檜山郷土史稿」も忠季を一世としていますが、政季(まさすえ)を檜山城主元祖と記しています。これは三春町龍穏院所蔵の安倍家系図によったのでしょうが、元祖と一世の違いは判然としません。近刊の「秋田安東氏研究ノート」も忠季を檜山一世としています。

 ところが「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」には「檜山築城之事」の表題で次のような異説を唱えています。

 「・・・淳代なる米代川を登る処に檜山とぞ称する要害の地ありて安倍康季(やすすえ)が城柵を築かんとせしは嘉吉(かきち)元年(1441)の頃とぞいうなり。檜山の地は全山要害の地位備わり。享徳元年(1452)是を落慶せしめたり・・・」とあります。仮にこれが正確だとすれば、檜山一世は康季になりそうです。康季は忠季の三代前で、小浜市の羽賀寺(はがじ)縁起や安倍家系図によると後花園天皇の勅命によって、永享8年(1436)に前年焼失した羽賀寺本堂を再建したとされ、十三湊(とさみなと)に居たころは日之下将軍(ひのもとしょうぐん)と称せられたといわれます。しかし安倍家系図では、康季は嘉吉元年(1441)2月12日に没したとなっており、系図が正しいとすれば前掲の三郡誌の康季築城の事実には無理があると思われます。

 同誌は「嘉吉元年、康季は檜山に菩提寺蒼龍寺を建立。三門の主柱には生けるさながらの双龍を彫刻し本堂は永平寺の釈迦堂にならって造り・・・」ともあります。ところがどうしたことか、3年後の文安元年(1444)同じ康季が土崎に蒼龍寺を建立したという記述もあるのです。

 確かに同名の寺が土崎港中央1丁目に現存していますが、この寺は安東氏ゆかりの寺ながら、はじめ湊福寺といった寺が宍戸へ移ったあとに開かれた寺です。無住の荒れ寺であったのを土崎上酒田町の孝庵策電という人が復興を図り、光明寺4世月関領鶴和尚を招いて開山としたそうです。

 結局「東日流外三郡誌」の檜山築城之事などの記載は、信憑性(しんぴょうせい)において問題がありそうに思われます。松前家の歴史を記した「新羅(しんら)の記録」ではやはり忠季が檜山築城となっており、諸資料を合わせて考えると、忠季(ただすえ)-尋季(ひろすえ)-舜季(きよすえ)-愛季(ちかすえ)-実季(さねすえ)の5代、実季が土崎湊城を築いて移るまでの103年間が、檜山安東氏の時代だったとみたらどうかと、私は考えています。

安東氏(安倍・秋田)氏系図 (20200630)


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